ポストインターネットリアリティは、かなり期待をして見に行ったが、サブタイトルのごとくまだまだ
実験の素材といったところ。
1990年初頭から一気に進むブロードバンド化により生まれた新たな
コミュニケーションのあり方、Twitterでは1日に2億にのぼる投稿がUPされている。すでにもう全てを
誰も見ることのできない情報量である。まさにAPI(アプリケーション・プログラミング・インターフェイス)
を介し、表現をシェアしている。そこには、今までのつながりが再編集されたり、また新たな意識下の中
での突然の出会いや発見に満ち溢れている。
ベーシックな人の信頼、安心というベースメントの中で別のリアリティのある人間間やコミュニケーションが
登場している。「タイプトレースの道」は、キーボードを押す間、人の思考の時により文字の大きさが変化し
表示される。これはなかなかユニークで、心情とはやはりアートの触手に触れるのだなぁと。エキソニモの
「ナチュラル・プロセス」は、グーグルの画面を巨大キャンバスに描くいかにもコンテンポラリーアートの
古典的表現だが、人は好きだ。
大きくアナログに描かれたものは、おまけに都合により展示はできなく、そのスペースのみがテープで表示、
これまた古典的なアート手法だ。笑うしかない。そして何も変わっていない。
アローン・コブリン+川島高の100$札をドットでインタラクティブに描く、つくるというのか、
共同作業、知らない人、同志がつなぐのだ。この新たな関係は、フェースtoフェースの時からあった
ベースメントが、未知とも思える地球の裏側の人と時空を超えて共有できるのだ。
発展し、リアルな関係(もうすでにバーチャルという体験から、リアルという経験に変化している)
となっていくのか、リアルが二重襲になってきた。もっとスーパーテクニックなクールでスマートな
表現にどこまで体温があるのかといった作品のオンパレードか、いや未だかつて何かを一瞬の衝撃で
ノックアウトしてくれるのか。そんな大きな期待は外れたが、古典や、人間どっぷりに浸かっているあたりは
安心した。と同時にこれからだ。チャンスの時だと勇気ももらった。
となりのオープンスペース2011は、ユニークだ。テクノロジー+アート。完成された作品が多い。
完結といっていいのかも。コンピューターだから描け縮小できる。「ロウビジョン」でも200年以前は
これくらいを描くだけでなく彫り上げていたのだから、人の技は侮れない。
「自計と分計」笑える。針なし時計、体内時計。これも200年以前は日本人にも皆あった。以前スウォッチが
イベントの際、針のない時計、いわゆるウォッチを出して話題になったのを思い出す。
グレゴリーバーサミアン、3Dに浮かぶCGにうごめく人、これは見事。美しく、リアルでワイヤーフレームの
人間が逆に未来に見えるレトロフューチャー。完成度が高い。
デヴィッド・ボウエン「テレプレゼント・ウォーター」も美しい。癒される。この木のバックの優雅な動き、
ウェーブはまさに水面リアルワイヤーフレーム。欲しいね。もっと巨大に作ってもユニークだと
アイディアが湧き出す。
見ごたえのある展示の数々、成熟したテクノロジーを使いこなし、洗練していく。
これも古典的手法であるが、DNAには響く。やはりどんなに進化しても、人類は古典に学べだ。
紀元前にほとんどの技のもとも、美の様式をつくられているのだ やはり。
引き続き、ドミニク・レイマンの「遠くて、近すぎて」。これまた、スーパーアナログデュラム聖堂の
星形アーチを空に人でつくる。スカイダイバー達と共に何とも笑える。そしてこれまた同志に繋がらないと
できない空中での融合は全体が見えず、イメージでつくっていく、まさに一つになるとはこのことで、
地上からのVTRをみていると声を出したくなるほど。作品はその姿をモノトーンのシルエットに編集し
完成させている。
これがまたノスタルジックでいい。生き物の形成、動体ルールはやはりビビッと来るのだ。
シルエット、モノトーンにしたことでスマートになり、より想像が生まれる。はじめは何、これはと思うが、
どうつくられたのか分からない。CG?いやちがう、アニメーション?と思うくらい、実写。それも空中で。
笑えるが、だからこそできるこのシーン。二度と同じはないのだ。それゆえに惹かれる。
一瞬間、同じはない、そのことをヒントにテクノロジーと付き合うと無限な表現がまた生まれる気配が
ビンビンと来る。これからだ、新しい幕開けは。
3.11東日本大震災から一年。さまざまなことを投げかけられ、とまどい、変わることが多い一年だった。
まだ復興は始まったばかり。問題は山積みだ。他人事とはよく言い当てたコトバで、当事者にならないと
身をもっては分からない。当事者となってもどうしていいか分からない。人はそれぞれの立ち位置や
知恵を持ち寄り、シェアして初めて一歩前へ進んでいくことができるのだろう。
時にはその一歩ですら後退につながっていることも、科学を手にした人類にはリスクと恩恵が表裏となって
動いているのだろう。改めて、一年前の気持ちに立ち返り、何をするべきかをアクションしよう。
振り返れば、やるべきことができていないまま時が過ぎてしまった。
東京は、突き抜ける青空、原美術館で開催のジャン=ミッシェルオルトニエルは家族連れをはじめ
多くの人が移ろいを楽しんでいる。空いているかと思ったが、逆のようだ。忘れているのか忘れたいのか、
時は流れている。
入口で迎えるMYWAYのタイトルからして、色ガラス玉のチャーミングなお出迎え。はじめの部屋には
大きなベッドに秘密の箱、何が入っているのか開けてみたくなるような夢の箱、どこか有機的で
ゴージャスなミステリアスな感はうっとりとする。シャンデリアではないが、天井からはドリームのお宝。
次の部屋はやられた、まいった、かわいい!ガラスのほっこりとした瓶の中に、水に浮かぶカラフルなこれまたオブジェ。
美しい、うっとりするみずみずしさ 欲しいね。並べてみたい。気が柔らかくなっていく。
窓からの自然光に輝く光は、生命を帯びている。生き生きとしている。
会場のアチコチで「かわいい」の声の連発。壁に掛けられたオブジェもシルエットと共に語りかけてくる
ルンルンな声。窓の外を見ているかのようなオレンジ色の植物のようなオブジェもいいね。
外の植物とリンクをしていく。よく見ると、中庭にもある。なんか自然の中にあるほど、双方が引き立つのも
ユニーク。まさに輝きとは双方により成立するのか。そうだ、同化することではない。個とはいい意味での
異質なのだ。
天井からたくさんのしずくがしたたる。2Fへ向かう階段の窓辺の光は美しい。建物自体のデザインも
バウハウス時代の完成度の高さが光を手招く。
3つ目の部屋の壁はキュート。そしてフロア全体にDNAを包み込む巨大なオブジェ、まさにミクロに包み
こまれている遊泳する一つ一つの玉に映りこむ景色は、その時々を吸い込み映し出す生命の源流となり、
いつまでも表情を変えていく。同じではない、違うから輝くのだ。そして陰影が魅せる。ネガとポジ
そこがあるから息吹も生まれていくのだ。
イマ、生きている。その限りできることは無限大にある。ソーシャルな時代こそ、加速がいい方向につけられるのだから。
パッケージは単なる商品の保護のためだけではない。やはり気持ちを包み込み、相手が
開くときにその心遣いを感じてもらうことができる、最もおもてなしのシーンだと思う。
シーンは発展する。それは五感で体認できる。視覚であじわい、触覚でひびき、香りで
リズムをきく。味覚は、モノによってであるが、それにしても贅沢なこれはくらしの文化であろう。
特に日本では古来より天然素材の草木、陶器、紙を豊かに知恵と技によりありとあらゆる手法を編み出している。
世界中で話題ともなった卵を藁で包むパッケージは、質素でシンプルそしてスーパーテクニックの襲。
とりわけ和菓子をはじめとした包の分野ではとめどなく発展を遂げている。二十四節気七十二候
というナイーブで、パワフルな変化のあるうつろいの中ではぐくまれる花鳥風月を
楽と無為に現代にいたるまでデザインされている。
とりわけ最近は大量生産、消費の激流で、ラインの事情から始まるパッケージデザインに
コストダウンという事情が重なり、本来の顧客への思いが忘れがちとなっていることが増えている。
今一度立ち返る時が来たのかもしれない。
100年以上続く山田屋まんじゅうのパッケージリニューアルのデザインをする機会に恵まれた。
一子相伝、一つだけしか商品のない薄皮の小さなおまんじゅう。もっともミニマムに
質感と気づきの視点を大事に。無垢な純白に、ふたを取ると目に入る下部をあずき色に
リズムのあるしつらえを描いた。しおりも熨斗紙の新しい形態をタテがけにして開くという
プロセスをあえて加え、気づきのリズムを味わってもらえるよう気を入れてみた。
全体に白地に肌合いとシンボルの梅の家紋の型押しのみ。手さげ袋も同様、
白に小さく山田屋まんじゅうが控えているところにやはり型押し。純白のベースは、
これから変幻自在に季節と共に色づくことをサプライズに、絵やコトバが描かれることもある自由な地。
楽しむことから楽しみが伝わっていく。伝えたくなることを素直に表現していく。
そんなところから愛され、気持ちがシェアされていくことを思い、少しずつ無垢な場から変化を始めたところ。
よもすると五感で味わう機会が減っている状況もある中、“想いの心を包み込む” “魅せる” 捨てられない
パッケージをこれからも目標に、いざ、クリエーション。
最近、アチコチが思い通りに動かなくなってきた。
半世紀も生きると何もしていなければ当然20代以前のようにはイメージ通りに飛んだり走ったりは
むずかしくなる。それどころか姿勢が崩れてきて立ち姿が美しくない。美しくなくなると、
当たり前なのだろうがアチコチをよくぶつけたり、転んだりする。
美しいということはバランスなのだ。当然所作も乱れていく。人が美しいと感じることは、
合理的であり、シンプルなのだ。筋肉を動かしながら、本来の機能を引き出す、そんな
基本的なことから。都会人はいかに生活が楽、便利と引き換えに動かなくなっているのか
がよくわかる。縄文時代の人と比べると彼らはおそらく肉体、五感的においては超人であろう。
HEARTH ISM にてコンディショニング。一つ一つの筋肉を動かしていく。
動かすことで記憶していくカラダ。動かさない、使わなければ、ストップし退化していく。
要するに無駄なエネルギーは極力避けるというDNAエコ。
ジムのようなマシンを使うわけでもなく、かまぼこ状の半円のポールを使って、
背骨を伸ばして本来の姿をつくることから、じわりじわりと。
半年ほど続け動かすと本来のバランスへと近づくとのことだが、果たして続くのだろうか。
継続は力なり。美を求めれば、安定と年を重ねるごとへの所作の積み重ねが大切なのだ。
創造の源は、そのあたりだ きっと。
最頂の道具が、人の縁を通じ代々受け継がれ、その流れは国をも越え愛され日々の暮らしの中で
特別な宴の中で使い育てられてきた茶器や調度の数々、もともと安宅 英一氏の1000点におよぶコレクション。
これだけの品々を集めるには単に財力ではできることではない。
審美眼と同時にやはりそれらの道具と向き合い、使いこなす器がないとこうも集まってこない。
人に集まってくるのだと思う。誰に受け継ぐべきか、名品になるほど人類の宝でもある。
安宅氏も何年もかけて通いつめ、譲り受けた一品や、何度も断られたその手紙を軸装し、
相手を客人とし招きその手紙を床にかけ、断りの経緯と口説きを無言でアプローチすると
その執念ともいうべきエネルギーは、心血を注いだといってもいいのでは。
残念ながら、安宅産業は破綻となったが、当時このコレクションの散逸をおしむ各方面の意見で
住友銀行 磯田頭取の意で住友グループが買い取り、大阪市に文化振興基金として寄付し、
その資金で大阪市が買い取るという実に考えられる知を尽くしたプロセスで現在の東洋陶磁美術館が誕生した。
個人のコレクションではないので、茶器など使うことはなくなっているようだが、守られたことは奇跡で
このコレクションが実に重要かを物語っている。高麗・朝鮮時代、中国唐の時代から明に至るまで、
安宅氏の美意識によりある一つの世界観が生まれている。
贅沢なのが、その器や道具が生まれた時代には、1000年を越え、国を越えた時空の中で、
一堂に会し、組合せ、使うことはなかった茶道という文化が日本で発展しなかったら、どうだろう。
このような組み合わせもなかったのかもしれない。
そして日本も江戸時代までは幕府と主大名以外は譲り受けるチャンスはなかったのだろう。
幾重に重なる奇跡であろう。それにも増して一品一品がまた奇跡の美である。
人と自然とが融合し時には反発し生まれたこの名品の数々は、とにかく心がどこまでも解き放たれていく。
ガラス越しにしか対座できぬが、大阪に行くたび時間を作りこの美術館で時を過ごせば、落ち着くものだ。
今日その中からさらに選ばれた名品がサントリー美術館へ。おなじみの品もあるが見たことない作も多々。
名品は美しいという事だけでなく、見る側のその時のコンディション、立ち位置により、姿を変える。
またその場の空気も大きな影響を与える。唐時代の加彩婦女俑は、優しいふっくらとほっこりとこの安堵の漂う
表情にフォルム どこから見ても安らぐ。後姿までもが一貫している。
青磁刻花牡丹唐草文瓶は、恐ろしいほど深く静かにたたずまいを持ちながらも一回りも二回りも大きく見え迫る。
飛青磁花生、このたたずまいの気品は現世の物とは思えぬほど、優しいみずみずしい透き通る青磁の色。
どこまでも奥行と景色を見せる。コトバが出ない。
油滴天目茶碗も1、2を争う名品。どうするとこんな完璧なフォルムと模様が生まれるのだろう。
奇跡の美、いや神秘の域に入っている。いい、欲しい、使いたい。天目好きにはこの上ない一品。
高麗の青磁瓶もシンプルでありながら、口から胴にかけてのモダンなフォルム、青味が効いた色合いが
うっとりするね、しっとりした肌合いもたまらなく美しい。やはり高麗の青磁陽刻筒形水注し、
良いデザイン、デフォルトがうまい。使ってみたい。
完璧な形で受け継がれていることが、いかに大事に使ってきているか、使う側の向きあいも計り知れぬ
良さがあったのだろう。
現代の大量生産、消費時代のもの離れ、所有意識がシェア意識へ大きくシフトしている。ある意味
そうでなければ地球全体が成立しなくなるほど世界的物質文化が末端まで進行している。
そんな中でもやはり究極な道具が生活の中で使われ、育てられ、受け継がれていくことが
一人一品は必要なのではないのだろうか。受け継いでいく いいものを もシェアだ。
最近、夜の銀座通りが明るくなった気がする。
気がするのではない、よく見ると明るくなった。
道の街灯がいつの間にか変わった。スクエアーで、全体が照明として点灯し発光する。
光のアーケードが出現するスクエアーでシンプルなデザインは、もう一工夫してもと思う点もあるが、
良いリニューアル。
建物より内にある灯は街をつくる大きなランドスケープとなっている。
最近個性的なデザインビルが立ち並ぶ銀座に一つのアイデンティティとなったことはまちがいない。
どこかミニマルで和なテイストも海外からの人々の気も日本に来た感を引き上げることだろう。
チョットしたアイデアとデザインで世界が大きく変わる。
ホッと一息、外苑前のドトールコーヒーの内装はユニーク。
壁一面が本と思いきや妙な3Dな立体 それもうごめく?
よく見ると布に本棚をプリントし、その後に鏡を仕込み、透かし 映しこんでいく。
これが妙なアナログ3D。心地いい。なかなかのアイデア。チョットしたことなのだ。
桜の季節チョイ前のサクララテを味わいながら、デザインとは アイデアとは チョットした
変化と楽しむ心意気から生まれて湧き出てくる、つくるプロセスのどこか喜びがにじみ出ている。
やはり大事は変わっていない。ソーシャルな時代へ、ますます本音がkeyとなってくるのだろう。
楽しまないと、もっと、もっと。
見えるところがおおむね真実として、見えないところは神秘となる。
もしくは?!となることが多い。
松井冬子さんの作品は内面を切り裂き内臓を引きづりつつも、美しく、
そのせつなさが命の脈打ちでもあるようだ。
人はある緊張の先には狂気が走る。心地よい緊張は快楽への道となることもある。
人の肉体に隠れた内面 もっと単純な中身と対座することすら恐怖でありつつも
興味がわき、見たいもの見たさとなる、あばけば皆、血、肉、内臓、骨なのであるが、
表面の見える外観で大きく思考を左右している。
感性マーケティングで取り組んでいる手法も人のそのあたりの五感が出発点の一つだ。
赤いリンゴはおいしそう、当たり前のこと、しかし青いインクで塗って変わったリンゴは
何それ?食べる?ウソといったところ。
中味は何一つ変わっていなくても、その表面で一瞬に思考が変わる。
松井さんの絵は、その両面を一つの画におさめ、人の持つ強い感情の興味のひだを思いっきり引っ張る。
それにしても吸い込むような肌の美女、ウットリすると同時に思わず快楽の道と恐れの瀬戸際の緊張へ
連れ出される。
そんな多くの作品の中でも、象が真っ黒の湖の中に自ら沈み、命を絶とうとする絵は、
他と少し違って感情が大きく挿入されていく。生きることの際を見せつけられる。
どこか人事ではない、私事なのだ。不思議な一枚。
死という命を喪うということが、どこか肉体という物理的な表層と、魂や心といった内面との
境界を感じるのだろうか。しばし足を止めた。
横浜美術館で開催された松井冬子展は、普段忘れている感性の中に埋め込まれたセンサーが
反応する分かりやすい場だ。
やはり、見えているもの以外に見えないところにどうやら本質は見え隠れするのだろう。
空に光る星のほとんどが実在せず、人の一生では見えない多く存在する星があるのとどうもオーバーラップする。
やはり、恐怖に一歩踏み出してこそあらたの兆しが始まるのだろうか。
庭に風でゆらゆらと全方位に動く新宮 晋の彫刻を発見、これもまた目に見えぬ風の動きを
わかりやすくみせている。その動きでよりリアルに空気の流れとリズムが味わえる。
視覚というものがやはり五感の中で大きなウエイトを握っている所以なのか。
命の源には、もっとも合理にのっとった形態があるのだろう。
風に吹かれ、見ずに流れ、より生命の育む可能性の高い状況へうつりゆき、根づき、
それでも安心する時は一時もなく、太陽へ向かって伸び続けていく、そんなはじまりで終わりなのか、
周期なのか、命のバイオリズムのカタチはデザインの原点なのかもしれない。
牛骨の頭のような種子。種子といわれなければわからない。
それにしても美しい天然のオブジェ。人は、つまるところそこをなぞって
芸術やデザインの美へと昇華させている、いや回帰しているといった方がいいのか、
結局はDNAに刻まれた記憶のスイッチが入らなければ、感動のスタートが鈍いのかもしれない。
INAXギャラリーから新しくLIXILギャラリーへと生まれ変わった展示。
無駄の積み重ねから生まれる命、全ての種子が花を咲かすわけではない。
そんな中でかげろうのように舞う。優雅で可憐でケセラセラ。神秘だ。
アプルスの真赤でチャーミングな種子も印象的だ。
この色味、このカタチ、すべてがデザインのエッセンス。
いただきの連発な場、展示の粗さがが繊細で大胆な命の凝縮ゆえ目立つ。
もったいない、ここがパーフェクトだと新たな洗練が生まれるのにもったいない。
でもいいキューレション。
その横で堂東由香さんのミニマムで落書きな ある種だ。
引きで見ると模様、よく見ると一つ一つがアニメ―ションな表情 笑えるほど詰まってます。
コンピューターでの増殖もいいが、手で描いた増殖が良い。
逆にコンピューターのパターン化される荒が目立つ。
どこか共感する無駄の意味、生まれることの大義かも。
間をおいて本日はCHANEL NEXUSにて開催のエリオット アーウィットが見つめたパリへ。
パリという街を舞台にパリの人々とそこに共同生活する犬たちをユーモラスに、
ウィットに満ちた世界でとらえる。
何かパリといったところでこのウィットに全てが象徴される。
20年以上前、彼と仕事をしたことがある。とにかくチャーミング。
一瞬の人の喜び、おどろき、しぐさをとらえる、そして引き出す。
オモチャのラッパを撮影中に、突然鳴らしたり、ジョークを言ったり、
心を解き放つマジシャンのようだった。
愛情にあふれ、その気持ちが表現に定着されていく。
よくよく今一日を振り返ると、自然が既に創造した生命の色、カタチのデザインに
人が生み出した一つの形態としてのファッションやデザインに、ウィットという視点を
クロスさせると、実に豊かな時の定着が生まれていくのではと。
ウィットの他に、エロティックという軸もあるのかもしれない。
どこかピカソとリンクするところもあって、自然+愛+陽気、
ここから次の表現が生まれるのだ、きっと。
生命をポーリングの技で定着した偉大なるアーティスト。
その生涯は、苦悩だったのか、楽天だったのか、ポロックに会って話をしたかった。
暖かくなったり、寒くなったりと気候の安定しない東京は、
どうも身体のコンディションも落ち着かない。
東京近代美術館で開催のポロックの展覧会は、初期作品から晩年の作品まで
幅広く展示されている。
アメリカンドリームのような彼の人生も波乱に満ちている。
不安定な精神状態の中でアルコール依存により生き貫き描かれた1930年代の作品の数々は、
時空がフィクスされていないようだ。湾曲し、歪み、それが動となり溶け出していく。
「西へ」ははじめて見た初期作だが、満月の中で大気が動く。
実際、満月は地球に大きなパワーをもたらす。
ポロックは見えていたのだろうか。そうでなければ描けないだろう。
深く、重く、どこかなつかしく。
アルバート・ビンカム・ライダーやベントンらの影響を受けているといわれている。
それ以上にどこか自分の立ち位置を捜しているかのようだ。
幼少期より、アーリーアメリカンのアート、メキシカンアートに
深く興味を持ち、その作用は随所に表れ、溢れんばかりの生命力は
ポロック全作品を通じて味わえる。この感が実はいい ものすごく。
オロスコの壁画やシクロイスの壁画にも影響を受けた作品「赤い馬と
アーチのある構成」にも感じるが、総じてプリミティブで祭事の天への
感謝に溢れる躍動を感じる。
ピカソからも強い影響を受けている。ピカソ自身もアフリカンアートに目覚め、
その後躍動的に作品が次々に生み出された。
ポーリングの大きな作品はその前に立つとカラダ全体のリズムを変えていく。
入り込んでくる。まるでダンスのように。VTRでポロックの制作風景があったが、
まさにダンス まるで導かれたかのようにポーリングがキャンバスを走る。
N.Y.の近代美術館にある巨大な作品は、その存在感は美術館の顔ともなっている。
私自身もN.Y.に行くと必ずその前でしばし過ごすことが定番だ。
今回は大型の作品は少ないが、小品に実に良い作品が。
書道のような作もある。自然感が生きている。
「金と黒」はいい、間合いといい、色味といい、襲といい、サイズも。
生涯アルコール依存と向き合い、生命のかたまりのダンスをキャンバスに
刻み続けたポロックは、やはりいつみても元気になる。根底がある。
常をこえた意からやはり真が生まれるのか。
1956年8月11日休養中に自動車事故で亡くなった。残念だ。
これも運命なのか。モダンアートの歴史はポロックのおかげで
変化を引き起こしたことはまちがいない。
嬉しくも悲しくとも似ている。
見た目以上に内面やしぐさ、いわゆる表現力だ。
写真家 蜷川実花さんとキルト作家で母親の宏子さんとのコラボレーションの展覧会。
あざやかでパッションのある蜷川実花さんの写真。自然界の原色のパレード。
ドキドキ、ワクワク色の洪水を泳ぐカラダがスキップしだす。
蜷川宏子さんのキルトもやわらかくその分鋭く溢れる明るさをコラージュする。
心地よく凄まじいエネルギーだ。作風は、違えど根っこが一緒だ。ビン敏とくる。
写真をプリントした布で作られたキルトの作品は、ハッピーに輝いている。
キルトでクマのぬいぐるみ、いい実に。欲しい。
さらにクマのぬいぐるみを撮影した写真は愛にあふている。
生命のリンケージ相伝が表現が違っても生きづき あわせることでより見えてくる。
微笑ましい。フアシヨナブルな表現が人間味が包み込む。
会場は、別世界、いい流れ、リズムだ。
親子で一緒に、一つの場でお互いを重ねてみる未来の姿の一端が顔見せする。
好きに生きているほど そして表現が違うほど。時空がシャッフルする大事が感じる瞬間だ。
